後に引けない状態を作る(後編)

 かくして、初音ミクの着ぐるみを着て、「みくみくにしてあげる♪」を踊るというミッションを課せられた僕は、ダンスの練習をすることになった。

 やはり、YouTubeニコニコ動画などで踊り手さんの動画を見て、それを見様見真似でやってみるという方法を取ることになる。まず、動画を左右反転するプラグインを入れ、鏡のようにして動画を再生することから始まった。HTML5、何者かは知らないが奴は便利である。さらに、YouTubeの機能として再生速度を0.5倍速にできるというものがあるので、これらを駆使し、動画を解析する。
 いくつかの動画を見て、やはり微妙に振り付けの違いがあったり、また多少なりとも上手い下手がある。「あ、こいつそんなにうまくないな。これよりは可愛く踊れるようになるぞ」などと、身の程を弁えずに息巻いてしまうのである。人間というのはかくほどまでに馬鹿なのであるかと後ほど思い知ることになるのであるが。

 振り付けのもとになっている小倉唯の動画は、あまりにもキレがありすぎて、「なるほど分からん」という状態になったので、大川麻理江という舞台女優がミクのコスプレをして踊っている動画があり、また彼女が可愛かったので、基本的にそれを参考にすることに決めた。
 やることは0.5倍速にした動画を4小節ごとに再生しながらは止め、それを真似ながら、ああでもないこうでもないと悩みながら、鏡を見て違うと嘆き、というのを繰り返すわけである。ああ、なんて地味で情けないのだろう。

 ニコ動には数々の踊り手さんの華々しい動画が上がっているが、その背景にはこのような地味な積み重ねがあったのか。NFのニコテラで踊っている彼らに我々は魅了されていたが、そのうしろには地道な練習を重ねているわけである。
 喩えば、華々しく東大や京大などの難関大学に受かった人がいるとする。彼らが合格発表のときに飛び跳ねている場面を想像するだろうが、その背景には、例えば英単語のターゲットを一つずつ暗記したり、もしくは何度となく和積と積和の公式を書いて暗記したり、あるいは導いていたりするのである。華々しい成果は、地味な積み重ねの上に成り立つのである。と、ここまで書いて思い出したが、京大に受かっている僕は、結局最後までターゲットは勉強しきれなかったし、三角関数の公式こそ覚えてはいたが、極座標積分の公式は半ば投げ出した状態で受験に望んでいたのだから、救いようがない。いよいよ暗澹たる気持ちになってきた。

 さて、ダンスの練習は順調に進み、約1ヶ月でとりあえずはという段階までは来た。いったんここまでの成果を確認しようと自分が踊っているところを動画に撮って見てみるわけである。端的に言うと苦痛であった。なぜ、俺が俺の踊っているところを見なければならないのか。よほどのナルシストでもない限り、そこそこの拷問である。とは言うものの、人様に見せることを最後の目標としているのだから、まずは自分で確認せねばならぬ。避けては通れぬ道である。
 これで、ダンスがうまければ、この作業も楽しいのだろうが、例えて言うなら、センター模試を何度解いて自己採点しても60%くらいしか取れていないような感覚である。落第はしないかもしれないが、まあ京大は無理だよね、和歌山大くらいなら狙えるのかなあ、みたいな出来なのだ。挙句、最初の頃に「こいつよりは可愛く踊るぞ」と低く評価した動画をもう一度見直して、「いや、この人も結構うまいじゃん」などと思い始めるのである。それはさながら旧帝大を目指して受験勉強を始め、関関同立を嘲笑っていた受験生が、最終的に日東駒専くらいで満足しちゃう構図と同じであった。まあ、世の中にはピン大でも? 立派な人も? いるし? いいんじゃないかな?? などと自分に言い聞かせ始めたのである。

 自分の士気もリーマンショックのごとくガタ落ち、これではいかん、とせっかくなのでミクさんを着て動画を撮り直す。苦痛感はだいぶ軽減されたが、まあ、なんというか「違うコレジャナイ」と苦しむわけである。もっさりしてる。Nexusのようなスマホを夢に描いていたのに、初期の東芝スマホみたいなのが出てきたわけである。せっかく可愛いミクさんなのに、そのミクさんを可愛く操演できない自分が恨めしく、申し訳ない。よく創作で指摘されることだが、自分が書いている以上、小説の登場人物は絶対に自分より聡明なキャラには描けないという話を聞いた。当然のことながら、中に僕が入っている以上、ミクさんは僕以上の動きはできないのだ。それこそが着ぐるみなのだと思い知った。素敵だけどちっとも素敵じゃない。

 あと、着ぐるみを着て踊ると気づく点が何点かあった。
 ミクさんは視界の良い面なので、その点ではさほど苦労はないのだけども、ツインテールが邪魔である。荒ぶるツインテールを自分の身をもって体感できるのが着ぐるみの魅力である。普通に踊ってる最中に自分の手でツインテール引きちぎりそうになるからな。
 あと、頭が重い。ミクさんの面は軽い方ではあるが、やはりツインテールにはそれなりの重量があり、ただてさえ体幹の安定していない僕は、踊るとふらふらする。
 それから、流石に飛んだり跳ねたりするから息が苦しい。普通に着ぐるみなしで踊っていても、暖房を消す運動量である。わずか2分の曲を踊りきっただけで、5分は肩で息をしながらうずくまるのだ。MMDでミクさんは何事もないかのように軽やかに踊っているが、彼女の体力はすごい。ユースケが「剛はダンスをやっているからな」とダンス万能説を唱えるが、ダンスができる人はすごいのだ。で、肩で息をしていても、鏡の中のミクさんは表情一つ変えないので、すごく着ぐるみらしくて興奮する。オナニーしたい。違う、そうじゃない。

 はっきり申し上げて、現在スランプに陥っている。練習を始めてから2ヶ月、才能を持たない人は何をやっても駄目、というところをしみじみ感じ始めている。
 まあ、記念受験みたいなもんで、結果はどうでもいい、と開き直ってもいいだろう。昔、電波少年でとんでもないアホを東大に合格させる企画があったが、センターで足切りすら超えられず、結局日大に合格させて終わりというのがあった気がする。そういうのでもいいんじゃないか。
 ただ一つ言えることは、こうしてブログの記事を書いてしまった以上、「後に引けない状態」になってしまったことだ。なかったことにはできない。というわけでミクさんのダンスComing Soon(白目)。

後に引けない状態を作る(前編)

 以前の日記で「自分を窮地に立たせる」話をしたが、何も僕はあの記事を受験時代を懐かしむために書いたのではない。もちろん受験生時代に戻りたいという気持ちもあるし、あの頃は楽しかったというのは事実なのだが、合格か不合格かというプレッシャーと常に戦い続けてきたわけなのだから、そのストレスはある意味社会人を超えうる。前回の記事は今回の記事のマクラ、前座である。すなわち、僕はここに新たに自分を窮地に立たせる状況を作りたい。

 話は2ヶ月前にまで遡る。Twitterをご覧の皆様はすでにご存知かと思われるが、先日着ぐるみで、岡山さんより新たに初音ミクさんを迎えた。世界のアイドルたるミクさんをこんな僕がやることに、興奮と不安を隠せない状況であるが、造形師岡山さんに言われた。「ミクさんは科学の限界を超えてきたのに、くっしーさんは自分の限界を超えなくていいんですか」(※この部分には誇張があります)。そう言って差し出してきたのは、小倉唯が振付をしたあのダンスをトレースしたMMDの動画である。ははーん。

 僕はダンスというのは非常に苦手であると認識している。僕は、基本的に人の動作をよく観察し、それを真似するという能力に欠けているらしく、それで会社で目の前でやってもらったことが、自分でうまくできないなどして呆れられている。ダンスはそのような繊細な動作の集大成である。そんな僕がダンスなんかできるわけがなかろう。小倉唯の動画を見るが、かなり難しそうである。

 一蹴することはかんたんであるが、一方で僕は僕の血が騒ぐのに気がついた。ウリナリ!!で、ウッチャンが「YELLOW YELLOW HAPPY」のキーボードソロを必死で練習していたことを思い出した。思い返してみれば、僕はできないことはやらない人間だった。あのときのウッチャンのように何かを成し遂げたいという願望が湧いた。

 一方で事態の深刻さを全く理解していないのが、僕の師匠であるよっきーさんである。よっきーさんは、「面白そう! 3日後に動画撮るからくっしーくんよろしくね!」。よっきーさんにかかれば、リニア新幹線も半年くらいで東京から大阪まで作れそうである。僕は、よっきーさんのような超人ではないので、無理だ、そもそも動画をちゃんと見たのか、と問うと、「すいません、ちゃんと見てませんでした」。これでこそ僕の師匠である。僕が適当な人間であることは、全部師匠のせいにできるのである。

 一方で、当の提案者であり、面の造形神たる岡山さんは「そんなに難しく考えなくていいですよ、気軽に楽しくやれればいいなと思ってます」などと、新興宗教の勧誘か、あるいは覚醒剤を勧めるときのような台詞を爽やかに言ってくれる。僕は「やってやろうじゃないの」などと昨今の量産型ラノベの主人公のような台詞を口にし、果たしてダンスの練習に励むことになったのである。

後半に続く(キートン山田

自分を窮地に立たせる

 よく予備校や塾などで「合格者の笑顔」などと称して、「私はこの予備校で学んだおかげで、○○大学(高校)に合格できました。△△予備校の先生方は、みんなユニークで面白くて、授業も楽しく……」などと書かせるやつがあるじゃないですか。僕もご多分に漏れず、中学時代に通っていた塾と、浪人時代に通っていた予備校とでそれを書かされたはずなのだが、何を書いたのかあまりよく覚えていない。

 ただ、中学では、塾の合格実績稼ぎのためにコネで関西の有名私立高校に合格させてもらったにも関わらず、そこを蹴って(賢明な行為だったと思っているが)公立高校に行ったので、恩を仇で返したところがあり、ややわだかまりを残しての卒塾となった。「勉強ができること、いい学校に行くことが人間としての成功を意味するわけではない」という教育を親にしこたま受け続けていた。妹は、これまたなかなかのアホだったので、彼女とのバランスを取るためだったのかもしれないが、まあ結果としていい高校に行くことに自分の中で嫌悪感が生まれてしまい、その有名私立高校を自分の意志で蹴るに至ったのだ。それでも地元で一番の公立高校に行った。無双できたかというとそうでもなく、まあでも上の中くらいの成績ではあったと思う。

 それは結構なのだが、学年で10本の指に入るほどではなかったにも関わらず、驕り高ぶった僕は、身の程を弁えずに現役のときに果敢に京大にアタックして散ったのだが、あとで蓋を開けてみると、そこまでトンチンカンな成績でもなく、むしろあともう一歩か二歩くらいのところで滑っていた。しかし、不合格は不合格。高校に「京大滑りましたてへぺろ」という報告をしに行ったわけだが、不合格という現実を前に何を思ったのか、僕はその出身高校にある文章を寄稿したのである。

 それは、「不合格者の泣き顔」。合格者の笑顔のパロディを載せてほしいと先生に頼み込んで、これにノッてくれた先生がそれならということで、合格者の笑顔の最後に載せてくれたのである。「現役生はマジで受験寸前まで成績が伸びるから諦めないでほしいけど、それが合格のラインに到達するかは分からない。だから、現役生は受験直前まで石にかじりついて歯が砕けるまで勉強してほしい。合格の保証はできないけど報われるから」というような内容だったと思う。興奮した状態で書いたので、かなり支離滅裂な文章になっていたと思う。ちなみに、僕は石にかじりついていなかったから落ちたのである。さて"合格者"は、文字通り顔出しをして、ピースサインをしているのだが、僕は顔を手で覆い隠すような写真を載っけてもらったと思う。先生は演出家だった。このようなブラックジョークを受け入れてくれる高校には恐れ入ったし、何よりこのようなブラックジョークを高校にかませることができたというのは、ひとえに母校愛ゆえだろう。

 さて、僕がアホだったのは、この行為が自分にとって楔であり十字架であり足枷になりうるということに、いよいよ最後まで気づかなかったという点である。ひとはこういうのを背水の陣と呼ぶ。つまり、浪人して絶対に京大を受け、しかも落ちることができないということだ。「不合格者の泣き顔」は「I'll be back.」とセットなのである。当時の僕は、ただ単に自虐ネタに走っただけで、この文章・行為によって自分を追い込む、窮地に立たせる意図はなく、また窮地に追い込まれてるという意識すらなかった。僕は冒頭でアホだと言った妹よりアホな可能性が高い。

 Elyさんが以前TLで言っていて感心した言葉に「根拠のない自信を持て。根拠のある自信は根拠が覆されたら、もはや自信を持つことは不可能だからな」というものがあったのだが、僕は当時根拠のない自信に満ちあふれていたのだろう。結果的に京大には合格したのだから、根拠のない自信万歳である。

 一方、件の「不合格者の泣き顔」であるが、その後数年間、僕の真似をする人が何人かいたそうである。そして、その文章を寄稿した人たちは、皆翌年浪人してきちんと合格するというジンクスができたそうである。ちなみにみんな京大か阪大らしい。第一号としてちょっと誇らしい。

結婚できないのかしないのか

 我々この趣味を持つものにとって結婚とは頭を悩ます問題である。まず世の中に女の子のお面を被って女の子の衣装を着て、それだけに飽き足らずまちなかに繰り出し、あるいは同胞の趣味を持つものに精子をぶっかけられて喜んでいるような人と結婚していいと言ってくれる女性が存在するかどうかである。余談ではあるが、ある調査によると、着ぐるみ界隈では約6割の人に結婚願望があるという報告がある。
 別に今日は着ぐるみ界隈の人が結婚できず、無情にも歳を重ねていくことに青息吐息したいわけではない。そもそも嘆いたところで、結婚できないに決まっているし、嘆く必要があるのかも分からない。
 
 先日、研究室時代の先輩と会う機会があったのだが、驚くべきごとに彼には全く女性関係の話題がないのだ。
 彼には、僕のように女の子の格好をして
女の子のふりをすることような趣味はない。善良な一般市民として日常を送る方だと僕は記憶していた。むしろ学生時代には、僕は彼のことを「一般人」「リア充」などと言って弄っていた。僕の認識では、およそ一般人とされる人は、20代後半ともなると、浮足立ち結婚を将来に見据えた交際相手がいることになっている。となると、その先輩には当然彼女がいて不思議ではない。百歩譲って彼女がいなくても、交際しようとしてうまく行かなかった人がいる、だとか、あるいは今度の週末に女性と食事に行くというような色めき立った話があるものだろうと勝手に想像していた。

 僕は彼に「今、彼女とかおんの?」と聞かれたが即答した。彼は"わかり手"なので、「着ぐるみ内射精とかしてたら、まあそうか」と言った。研究室の先輩という「一般人」から「着ぐるみ内射精」という言葉が聞けるとは感無量である。彼が研究室に入った頃には「ケモナー」という言葉さえ知らないほど純朴な男だった。僕のTwitterをフォローした結果、汚染されることになったのだろう。僕は、心の中でほんの少し詫びた。しかし、彼はさらにわかり手なので、「でもしゃれんきゅんが彼氏なんやろ?」と言った。流石である。

 僕は聞いた。「先輩はなんで着ぐるみ内射精とかしないのに、彼女いないんですか」と。彼の話を総合すると、要は独身貴族でいたいということなのだろう。旅行が趣味の男である。いつの間にか、一人で台湾にも旅行に行くようになったのだ。「同期に彼女いたり結婚の話とかは?」とも聞いたが、確かにそういう話はあるが、その話を聞いて焦りを感じることすらなかったというのだから、なかなかのものである。一応一般人よろしく合コンには3回行ったそうだが、「楽しくなかった」そうで、「めんどくさいから」という理由で連絡すら取らなかったらしいし、いよいよ本物である。

 「もしかして先輩もホモなんですか」とも聞いたが、特に否定はしなかった。ホモは着ぐるみの素質があるので、先輩も着ればいいと思う。

スクール水着を着て風呂に入る

 例えば、仕事に疲れたサラリーマンが非日常を求めたいなら、別に何も週末にビジネスホテルに泊まりに行ったり、下りの電車に乗ったりする必要はないのである。もっとも下りの列車に乗っても着く場所は名張で、そこでぶっかけられるのは僕にとってはマクロな視点で見れば、それほど非日常というわけでなくむしろ日常の範疇であろう。

 スクール水着を着る場合は大抵の場合、着ぐるみを着ているとき、すなわち肌タイの上からであり、直接着ることは少ない。ここに非日常が入り込む隙があるのである。もっとも、僕にとってはさほどこれも非日常というわけでなく、真夏の何も予定のない休日なんかにシャワーを浴びて、スク水を着て、そのままクーラーをガンガンに効かせた部屋で毛布を被って昼寝するというのを至上の極楽としていたのだから、これもさして非日常とは言えまい。

 スク水を着る男性は多いと思うが、濡らす人はその数に比して少ないと思う。スク水をお持ちの男性はぜひシャワーを浴びるなど濡らして、その新鮮な質感を楽しんでほしい。水着は、水に濡らすためにある衣服なのだ。
 ところで、僕は現在セパレートのお風呂の物件に住んでいる。学生時代は家賃をケチるために泣く泣くユニットバスの物件に住んで、人権を手放していたが、社畜は精神の摩耗と引き換えにお金を手に入れたので、家賃にそれを投入することができ、見事セパレート物件に住むことができたのだ。

 先日僕は、はて最近スク水を直接着て濡らすことを楽しんでいないな、と思い、せっかくなのでスク水を着て、お風呂に入ってみることにしたのだ。実家暮らしでは絶対にできない芸当である。一人暮らしでは何もかも自由なのだ。社会という不自由に縛り付けられているようで、会社から解き放たれた社会人は意外に自由である。

 もっとも僕は別に素女装を楽しむ種族ではないので、スク水を着たときの美的感覚は皆無であり、その姿は醜悪といったほうがよかろう。脛毛こそ剃っているが、それ以外の毛の処理は一切していない。このときばかりはパイパン四天王に弟子入りしようかと思ったが、銭湯で恥ずかしい思いをするだけなので、やっぱり辞めることにした。剃るのは脛毛だけで十分だろう。
 それでも一応体型には自信が多少あるので、着ぐるみを着た上でのスク水姿なら人様にも見せられると思っている。そのためにMr.オクレのような体型を維持しているのだ。お前らMr.オクレを馬鹿にするけどな、じゃあ顔は福山雅治、体は彦摩呂の男性とMr.オクレ、どっちに着ぐるみを着せた方が萌えるかという命題について真剣に考えたことはあるか? アンガールズの山根じゃ背が高すぎる。やはりMr.オクレなのである。

 果たしてスク水を着た僕は湯船に入ったが、僕は重大なミスを犯してしまったことに気がついた。男性が女児用のスクール水着を着ている時点で、人間として重大どころではない騒ぎのミスを犯しているのではないかという声が聞こえてきそうだが、そうではない。入浴剤のバブを入れてしまったのである。今しがた会社帰りにドラッグストアで買ってきたものである。入浴剤はなけなしのQOLを上昇させる。しかし、僕が入れたその入浴剤は湯色を不透明にしてしまうのである。果たして、お湯は失敗したEmulsionのように白濁し、せっかく新鮮な質感を楽しもうと思っていたスク水は、少なくとも視覚的には見えなくなってしまったのだ。意気揚々と買ってきた入浴剤だが、深く考えず安易に入れてしまったためにこのような悲劇を引き起こしてしまった。

 残念体型の着ぐるみさんは、入浴剤を入れて白濁したお風呂の中に入れば、首だけしか見えなくて、いいと思う。

ブログ飽きた

 いささかキャッチーなタイトルで皆様の目を引いてしまったことにお詫び申し上げるが、このブログを続けることに、自分の中でそろそろ限界を感じ始めたのである。

 と言っても執筆意欲がなくなってしまったわけではない。むしろ今まで以上に執筆意欲は高まっている。結論から申し上げると、ブログはまだ暫くの間は続けるので安心してほしい。

 どういうことか説明しよう。僕は、このブログを始めるにあたって、いくつか自分の中で決めたルールがある。

・タイトルはしりとりで繋ぐ

・パラグラフの数は原則四つ

・「ですます調」で統一する

 

 一つずつ説明する。まず、一つ目の「タイトルはしりとりで繋ぐ」だが、過去の記事を辿ってみると分かるように、はじめの「笹松しいたけ」から始まり、延々とタイトルがしりとりで繋がっている。これは、私の過去のブログの失敗から学ばれており、私は包摂主義者なのでその日その日あったことを克明に記さなければならないという義務感に縛られる一方で、怠け者なのでブログをサボっている間にどんどん日にちが経過し、気がついたときには3ヶ月前のことを日記と称して書いているといった事態が頻発したのである。これでは元も子もないということで、「日記」に縛られないスタイルとして「お題」に対して、自分の思うことをつらつらと書くという方法を取ったのである。そこで捻りを加えて、そのお題をしりとりで繋ごうとしたのである。

 笹松恩師にむやみな縛りは自分を滅ぼすから止めたほうがいいという忠告をもらったにも関わらず無視し、頑なに1年近くしりとりをつなぎ続けてきたのである。これには理由があって、任意に「お題」を設定できるようにすると、全速力で自分の好きなことを書き続けて、そのうちネタが枯渇して燃え尽きるといった光景が予想されたからである。実際、初代(?)のどざいさんのブログが面白いと評判のまま、全速力で突っ走ってたった10回の更新で最終回を迎えたことは記憶に新しい。10回って。アニメの1クールにも満たないやん。

 確かにその試みは成功し、ある意味ではネタは枯渇することなく、1年間ブログを更新し続けることができ、むしろまだまだ秘蔵のネタがあるくらいなのだが、如何せん記事ごとの落差が激しい。着ぐるみの記事になると水を得た魚のように意気揚々と怪文書を垂れ流すことができるのだが、無難なお題の記事になると、途端に僕がホームグラウンドの関西ではなくアウェイの関東のオフ会に行ったときのような薄味の、毒にも薬にもならない人畜無害な文章を量産する羽目になったのである。人畜無害など、僕の敬愛する師匠であるよっきーさんが最も毛嫌いする世渡りの仕方であり、弟子が、失敗して買ってしまったみかんのような薄味の文章を書いているなど嘆かわしいと思っているに違いない。師匠は気違いが好きなんだ。

 もっとも僕の心配するネタの枯渇は杞憂の可能性がある。僕の以前のブログのような縛りを設けなくても、どざいさんや笹松くんのブログは面白い。特に笹松くんのブログはもう何年も前から「膣内射精」の話しか書いてない。どんな社会問題でも世間話でも、膣内射精に繋げられるのである。マンネリだろうか。仮にマンネリだったとして、誰が彼を責められよう。この期に及んで「サザエさん」がマンネリであることを批判する人などいない。我々が「サザエさん」に求めるものを考えれば、「サザエさん」があれでいい理由など明らかである。突然、笹松くんが「起業しよう」とか「素敵な同僚と上司に会えて圧倒的成長」とか言い出したところで、誰もそんなのを求めていないのである。すなわち、僕に人畜無害な文章など求められていないのである。女の子の姿をした着ぐるみさんの中にコンドームをつけた男性がむらむらしながら入っているって素敵ですよね、とかそういう話が求められているのでいる。

 

 二つ目の「パラグラフの数は原則四つ」であるが、これは当初文章の構成力を身に着けたいと、その4パラグラフで「起承転結」を付けられれば、と思って設定した縛りである。が、薄味な文章では、そばと言いつつほとんど小麦粉で繋いどるやんけというようなスカスカの文章がより引き伸ばされるだけであり、逆に自分が書きたいと思うお題では、四つのパラグラフに無理矢理収めたようとしたり、これ見た目四つやけど、実質七つあるやんけといったような歪が生じることになったのである。

 「起承転結」などとんでもない話で、一般人の与太話がそこまで綺麗にこの形に落とし込めることなどない。もちろん結に当たるオチはある程度必要だと思うが。起承転結に苦しめられるなんて、植田まさしなど4コマ漫画家だけで十分である。むしろまんがタイムきららとか、あいつら4コマを「起承転結」の形に落とし込むつもりなんてもはや毛頭ないぞ。

 

 三つ目の「『ですます』調で統一する」であるが、僕は『だである』調と『ですます』調が考えなく混同されている文章ほど頭の悪いものはないと思っている。なまじまともな教育を受け、まともな大学を出てしまった以上、たとえネットという電波展示館のような場所でもここだけは譲りたくないのだ。僕は学力が高いんだ、ということをアピールしたいのである。

 で、たまたま最初に書いた文章が「ですます」調だったので、以降「ですます」調でブログを書き続けることになったのである。が、知っての通り、僕はそこまで行儀のいい人間ではない。むしろ「ですます」調など最も使いそうにない人間である。(なるほどですね。)そもそも、僕の大事な人生を会社などというつまらない空間で浪費していて、そこで使う言語は(それほど厳しいものではないものの)敬語、すなわち「ですます」調で辟易しているのに、ネットましてや自分の庭とでもいうべきブログという自由な空間で「ですます」調を使っているだなんて、首輪をつけて喜んでいるマゾなケモナーのようなものである。僕は、着ぐるみを着てあざとい仕草をして男性を萌えさせてそれを中から見てニヤニヤほくそ笑むような、むしろサドな人間である。自分の庭では大いに「だである」調を使わせてもらおうじゃないか。

 

 以上、今後、僕のブログでは上記三つの縛りを外し、より自由気ままにブログを書こうと決心した。やっぱり着ぐるみ内射精がナンバーワン!

キス

 皆さんはキスをしたことがあるでしょうか。私はあります。
 みたいな書き出しってすごく笹松ブログっぽいよね、みたいなことを思いながら書いてみました。
 どうも最近自分で書くブログがそんなに面白いと思いません。理由はわりと簡単で、笹松氏のブログやどざいさんのブログが面白いからで、それらに比べるとどうしても自分のブログが見劣りすると思ってしまうからなのです。
 あとこれは一般によく言われることなのですが、ネット上での執筆活動というのは、受験を控えているなどリアルでの活動がわりと切羽詰まっていたりしているときの方が面白いそうです。実際、笹松氏のブログの最盛期は、退職寸前であったと言われています。
 ところで、このブログ記事を書いている1月3日16時現在は、関東への5泊6日の旅行の帰路なわけで、明日から仕事という「精神的にわりと切羽詰まってる」状態なわけであります。ということは、今なら、わりと面白い記事が書けるんじゃないかと思い、筆を執ってみることにしました。しかも僕は、着ぐるみしか能のない人間なので、着ぐるみのことをテーマにすれば、そこそこ面白い記事が書けるんじゃないかと踏んだわけです。
 さて、今回のテーマは「キス」です。おいおい、キスをテーマにしておきながら、第一パラグラフで「着ぐるみ」と限定している時点で、生身の女の子へのキスの話は排除してしまうのかよ、というところですが、はい、そうです。
 生身の女の子にキスしたのなんて10年くらい前ですからね。ていうか、世間一般の男性は「女の子」という名詞に「生身の」なんて形容詞つけないですからね。着ぐるみ界隈の男どもがいかに狂っているかよく分かりますよね。そもそも世間一般の男性は、ネットで知り合った本名もろくに知らない男性に"女装"して抱きついたりしませんからね……。

 

 着ぐるみさんとキス。これはざっくり次の二通りに分けて論じることができます。一つ目は、自分が外の人として着ぐるみさんにキスするケース。二つ目のケースは、自分が中の人として外の人にキスされる、あるいはキスするケース。ここでは外しましたが第三のケースとして着ぐるみさん同士でキスする場合も考えられますが、これは硬い同士が接触することになり、面の塗装が剥げることがあふので、おすすめできません。

 一つ目の「自分が外の人として着ぐるみさんにキスするケース」ですが、実際僕は着ぐるみさんにキスするのが大好きです。キスをするのは、閉じ口に限ります。開き口にはキスをしません。口を開けたままキスする女の子なんていないでしょ……。
 特に、キスをしやすいなーと思うのは、やっぱりぬこ面です。ぬこ面は、面が比較的小さく、かなり近くまで寄っても違和感を覚えない造形をしているので、その意味でキスがしやすいと思うのです。着ぐるみさんとイチャイチャするときは、まず着ぐるみさんを抱きしめ、キスをしながら股間を弄る。最高です。特に、キスをしたときに、面の内部が中の人の呼気によって温められ、人肌程度に温められている場合があり、人形なのに"体温"を感じる、というギャップを楽しむことができます。
 二つ目の「自分が中の人として外の人にキスされる、あるいはキスするケース」。わざわざここで「あるいは」という接続助詞を挟んだのは、この両者は厳密には異なるからです。外の人にキスされる受動的なキスはまあ外の人が勝手にやる分なので、なにも問題ないのですが、自分からキスをしにいく能動的なキスは、操演者のテクニックが要求されます。というのも、自分の口の位置と自分が被っているキャラクターの口の位置が異なるからです。当たり前ですね。特に、一般に着ぐるみは顎上がり*1する傾向があるために、やや下を向く必要があるにも関わらず、キスをするためには口が下に付いているために、そのときだけは上を向く必要があるのです。それでも正確なキスは難しいためにある程度まで合わせて、「キスをせがむ」ような仕草を見せるといったテクニックの合わせ技も考えられます。知らんけど。さらにキスをするときは両唇吸着音を鳴らし、あたかも本当にキスをしたかのように見せるといった高等テクニックを駆使することもあるらしいです。知らんけど & 知らんけど。


 先日、とあるオフで僕が着ぐるみを着ているときに、とあるまだ着ぐるみを初めて一年かそこらしか経っていない方にキスをしたのですが、その方は「着ぐるみさんにキスされたの初めて……」とちょっと驚かれていました。いやー、初めて奪っちゃったな、てへぺろ
 本ブログではまだ公開しておりませんでしたが、新しい娘として岡山さん*2より初音ミクをお迎えしました。そのお披露目オフ中の話なのですが、岡山さんの前でクラウスさん*3にキスされました。岡山さんは、それを見てたいそう驚いたらしく、「いやー、自分の作った面にキスをする人って初めて見ました」と感心した様子でした。なんでも、岡山さんは、着ぐるみ業界に入るのに複雑な経緯のあった方で、周りが着ぐるみに関する情報を一部封鎖していたとのことで、そもそも着ぐるみに対してそういった種類の愛情表現をするということが新鮮だったようです。いやー、またしても初めて奪っちゃったな。てへぺろ

 

 と、このように、着ぐるみさんとキスというのは、着ぐるみ界隈では比較的commonな行為なのですが、その一方で、どざいさん*4のように「着ぐるみとキスするのは、なんか作りものっぽさを如実に感じてしまうので好まない」と"斜に構えた"見解を述べる人もいます。以前、僕が彼のことを「斜に構えている」と指摘したことを不服に思っているらしく、それに抗議する内容の記事をブログに挙げていましたが、一転。「僕は彼らほどハードボイルドにはなれないし、僕は自分のちんこに着ぐるみの中で射精させることなんてできない」という謝罪文を声明するに至りました。いやいや、着ぐるみの中でオナニーしないって、お前パンピーかよ……*5
 いろんな男性が着ぐるみさんにキスしているなら、着ぐるみさんにキスすることは他の男性と間接キスしていることと同義になりますからね。あ、でも、それって現実の女性でも同じか。ビッチなら特に。パンピー男性、女性を介して他の男性と間接キスしていることになる説、これ水曜日のダウンタウンで紹介されませんかね。
 最後にキスと似て非なるものを一つ。上記で口開きの娘にキスはできないということを述べさせてもらいましたが、以前とあるところで口開きの娘をやらせていただいたときに、例によってキスされたのですが、口開きの娘にどんなふうにキスするのかなあと思っていたら、口に開いているスリット越しに中の人の呼気を吸うというプレイを楽しんでおられました。後頭部に手を入れて、温もりを感じることで中の人の存在感を感じる方は多いのですが、このように口のスリットを通じて、中の人の呼気を吸う人もいるのだなあ、と感心した覚えがあります。ですので、着ぐるみを着る前に、にんにくを大量に食うなどといった行為は絶対にしてはいけませんし(このあと自分をかわいがってくれるであろう人に何らかの嫌がらせというテロ行為をしたいのなら別ですが)、ブレスケアの大事さを説く一件となりました。小林製薬も「着ぐるみ着るその前に」みたいな感じで、テレビCMを打つといいのではないでしょうか。

*1:着ぐるみの視界と自分の視界がズレるために、着ぐるみを外から見ると上を向いている、すなわち顎が上がっているように見える現象。これを防ぐために操演者は常に上目遣い気味に外を見る必要がある。

*2:最近、着ぐるみ業界に面を供給しているクリエイター。阿見工房とも。もなか工房の弟子。大学院でも着ぐるみと経済を研究している。

*3:着ぐるみさんに対する愛情表現には定評がある。

*4:芸人。

*5:厳密に言うと、彼がキスを好まないのは、斜に構えているよりは、「作りものっぽさを如実に感じてしまう」という哲学のためだと考えている。