すろぉもぉしょん

 昨年の秋ごろにちょっとメンタル的にしんどかった時期があって、うつ病に近い状態に追い込まれたことがあった。理由は、社会人ブルーとでも言うべきか、とにかく職場での自分が居たたまれなくなって、誰を責めていいのか自分が悪いのか、五里霧中でゼリーでできた深海に沈められたようにとにかく藻掻いたことがあった。今はそのときに比べると随分楽になった。もちろん、今も決して楽観できているわけじゃないが。

 

 以前とある場所に、僕が苦しい気分になる人がいて、その人と話すとしばしば僕の精神の安寧が乱れていたのだが、その人がいないときに、他の人が「あの人なー、いつもあんな感じやよなあ」と言ってるのを小耳に挟んだのである。どうやら僕の精神の安寧が乱されていたのは、僕の器の問題だけでなく、その人の問題でもあったらしい。だが、その一方で「でも、昔に比べたら本当に丸くなったんよ。まるで別人」とも言われていたのである。数年前は風雲児のようなスタイルで活動していた方だったのだが、今でこそ集団の中心人物として重要な役割を演じているのだから、人間というのは不思議なものである。

 

 さて、そんな時期に出会った曲にピノキオPの「すろぉもぉしょん」がある。チュウニズムやmaimaiにも入っており、今やピノキオPを代表する曲の一つにもなっている。熱に浮かされた少女が、自分の半生を振り返りつつ、長い人生、人というのはゆっくり変わっていくのだから、そんなに悲観することはない、たぶん、という趣旨の曲である。その中には次のような歌詞がある。

十代 ドヤ顔で悟った人
二十代 恥に気づいた人
三十代 身の丈知った人
そのどれもが全部 同じ人

まさにそれだった。人というのは、長い時間をかけてゆっくりと変わっていくのだろう。そして、何年も前とは全く違う人のように振る舞っているように見えるのだ。このような歌詞を書けてしまうピノキオPは一体いくつなんだろうか。

 

 笹松氏が以前提唱した微分可能という概念にも似たところがある。明日というのは今日の続きにあるもので、人生というのは微分可能である。ゆえに明日の朝目が覚めたら隣に裸の姉ちゃんがいて一緒に寝ているというような、人生という関数が"微分不可能"な振る舞いをすることは決してありえないという主張である。相変わらず例として挙げられている事象が笹松節全開で分かりにくいが、笹松氏の意味するところは、人生(人間)とは、微分可能ですろぉもぉしょんな振る舞いをするのだ。

 

 さらに、すろぉもぉしょんの歌詞ではあまりにも深く共感するところがある。

のらりくらりのたうちまわり
じわりじわり 見覚えのない場所に

 ああ、まさに僕だと思った。僕は、ざっくり言うと、自分の人生を懸命に生きてきたという自負は全くない。幾分真面目には過ごしてたのかもしれないが、基本的にはのんべんだらり、水のように低きに流れることを好んで生きてきた。のらりくらりと
生きてきた。でも、多分のたうち回ってたんだと思う。少なくとも留年もせずに京大を出たんだから、世間的には気楽ではない方の歩き方をしてきたのだろう。そうしてるうちに、研究室に配属され、からくり時計のような人間に翻弄されながら、ここまでやってきた。なんだかんだで知らない会社に入った。気がついたら、見覚えのない場所で一年も自分の生涯を塗りつぶしていた。

 

 今、僕はそんな見覚えのない場所で、のたうち回ってる。でも、会社は基本的にホワイトだ。悪い人間もあまりいない環境である。のらりくらりしてるように見えるに違いない。それでも少し苦しい。毎日の解像度がちょっと低い。コントラストが僅かに鈍い。若干不安だ。恥ずかしい。

 けれども、「すろぉもぉしょん」の最後の歌詞は、僕にこう言ってくれる。

 

 恥の多い生涯なんて珍しいもんじゃないし、大丈夫だよ

歌詞中ではいったい何が問題で、何が大丈夫なのかさっぱり言及していないのだが、あまりにもこの歌詞は僕に直截的に響くのだった。ピノキオPがそういうんだから、大丈夫なんだろう。たぶん。

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