仕事の話は誰にも望まれない

 これは僕の持論なのだが、ニコ動にコメントをする頻度というのは年齢に反比例する。それこそ浪人生や大学一二回生の頃は、一本の動画に10個や20個もコメントをすることは少なくなかった。それも「wwwww」や「すげえw」、「吹いたw」、「アホやろw」などという内容の薄い賑やかしのようなコメントである。ところが、研究室に入った頃から、ニコ動を見る頻度も激減。社会人になってからはさらに減った。ただ、それよりも目に見えて減ったのが、「コメントをする頻度」である。億劫なのだ。コメント欄にカーソルをフォーカスさせて、何らかの文字を打つという行為が。言ってることはもはや鬱病患者のそれのようだが、たぶん鬱病患者じゃなくてもコメントの頻度が減ったという社会人は僕だけではないと思う。要するに、脳みそが社会人ナイズされて、だんだんそういう"若さ"みたいなものがなくなっていくのである。慣れない仕事に身を置いて、水に打たれる石のように、少しずつすり減っていくのだろう。

 

 とかく仕事の話というのは、赤の他人に話しにくいものである。学校の先生のようにドラマに満ち溢れた話題があるわけでもなく、大学の研究室のプライベートと地続きになっていて面白い話題があるわけでもない。真面目な話題か、さもなくば辛い話題か理不尽な話題しかない。仕事の話を他人に話すときなんて、それこそうつ病のSOSくらいである。あるいは上司や仕事の愚痴か。幸いなことに、うちの職場は確かにいい人が多いので、あえて愚痴を言わなければならないことも少ない。真面目な話を他人にしようとしたら、まず前提や背景の説明にエネルギーを消費する。挙句、話している最中に、自分の話していることが要領を得ていないことに気づいて、「そりゃ上司もイライラするわ」と自責モードになることも珍しくなかろう。かといって同期に話すのも嫌である。特段、利害関係があるわけでもない(別に競争の激しい会社でもないし)が、中途半端に当事者なせいで、生々しいのである。あるいは、虚勢や見栄を張りたくなって、テクニカルな話題以外は仕事の話なんてしたくなくなってくるのである。

 

 かと言って、全くの第三者、着ぐるみ界隈の人に話すことでもない。天満の安居酒屋で望まれている話題が、僕の仕事の話題でないことなんて百も承知である。。むつふさくんも社会人なのだが、彼もまた仕事の話は殆どしない。どざいさんに、僕らの職場での話題を話したところで、彼は右上の虚空を見つめ、自殺へのカウントダウンを始めるだけだろうし、金麦がまずい酒だという事実を直視せざるを得なくなる。それはサントリーに失礼だ。よっきーさんに話すと、きっとよっきーさんは僕のことをすごく励ましてくれるだろうし、認めてくれるだろうと思う。たぶんよっきーさんは来年のノーベル平和賞を狙っているんだと思う。そして、よっきーさんの職場の話を聞くと、あまりに理不尽すぎて、聞いてる側が憤死してしまうようなエピソードのオンパレードで、むしろこっちが逆に、甘えたこと言ってすみませんでしたと土下座したくなるのがオチである。

 

 結局、まあ、仕事の話というのは、特に誰に話されるわけでもなく、人々の心のなかで灰色に塗りつぶされて、そっと放置されているのだ。