社会人になってから1年と少し

 僕は今なお性質の悪い冗談としてしか受け止めていないが、どうやら僕は社会人になってから、とうに一年を過ぎているらしい。配属されてからカウントしてももう一年になる。正直なところ、しっくりきていないというのが実情である。結婚願望というものを完全に捨て去り、大学院を卒業してから、人生は消化試合に入ったと信じて疑わない僕は、社会人になってしまったということは、ひょっとしたら何らかの間違いだと疑っている。明日目が覚めたら、またあの桂の坂を登り始めるのかもしれないし、なんなら吉田山の蝉の声の海を泳ぎながら、ろくに聞くつもりもない授業を聞きに行くかもしれない。あるいは、近鉄長野線に乗って、吹奏楽部の奏でる日常に揺蕩いながら、気怠い午後の風を浴びて部誌を製本しに行くかもしれない。

 僕の居場所というのは、確かにあそこにあったはずで、震災があったら崩れてしまいそうない今のビルのあの一角が居場所じゃないような気もしてる。それでも、案外日常というのはシステマティックに訪れるもので、確かにあそこに行くと、僕の席があって、なるほど僕の仕事もあって、怯えつつも、まあ頼りになる上司がいてくれて、そして口座を覗くと確かに給与が振り込まれていて、ああやっぱりここが僕の居場所になってしまったのだなあと釈然としない感情と付き合いつつも、僕は小さく生きていっているのだ。

 これは、"着ぐるみ警察"に怒られそうな話なのだが、僕が一番"居場所感"を覚えるのは、着ぐるみ界隈である。正直なところ、僕は着ぐるみについて自信がある方だと自負してる。着ぐるみ関係の活動に関して、概ね不自由なく、かなり楽しい活動をさせていただいていると思う。もちろん僕の背中を押してくれた方が与えてくれたきっかけから芽吹いたのであるが、それに加えて敬愛する師匠のおかげで、ここまで来れたことは、もはや疑う余地はない。

 ところがである。師匠であるよっきーさんなくして、僕の着ぐるみ人生は語れないなどと言っているが、僕が着ぐるみを始めてからよっきーさんに出会うまで実は9ヶ月かかっている。そして、初めて椛を着させてもらったのは、実はそれから半年後、すなわち着ぐるみを始めてから1年半後なのである。僕の着ぐるみ活動の方向性が、よっきーさんの椛で定まったことは頻繁に書いているので、改めて書くつもりはないが、強調したいのはその椛になるまで、着ぐるみを始めてから1年半もかかっているのだ。

 さっき居場所感がしっくり来ていない、と書いた会社に入って、配属されてから、まだ1年経っていないのである。たった1年である。つまり、僕はまだ椛を着たことがないのである。趣味ですら方向性が定まる機会に出会うまで1年半もかかっているのだ。だったら仕事で1年なんて、まだしっくり来ていなくて当然で、それで全然いいんじゃないか。僕はまだ椛に出会えていないのだから。こう考えると、不思議なくらい僕のざわざわした心は鎮まって、「ああ、まあ、こんなもんなら及第点じゃないの」と思えるようになった。別にブラックな会社というわけでもなさそうなので、「まずは三年」という言葉を馬鹿正直に受け止めて、このしっくり来ない日常を受け入れて、機が熟すのを待つというのがなんだかんだで一番賢い選択なのではなかろうか。