宗教で一山当てたい

今のお年寄りには信じられないことらしいが、今の若者はそれほど生きることに執着していない。

いや、もちろん美味しいものをたくさん食べたいとか綺麗なものをたくさん見たいとか面白いことをたくさんしたいとか、そういう欲はある。

しかし、積極的に人生というものを歩みたがる若者がどれほどいるかという話である。

まあ僕なんかは、もうこんな趣味を持っているので、真っ当な結婚なんかは諦めて、人生を軽く流してる。

周りを見て、積極的に結婚したがってる人は半数くらいだと思う。

なんなら着ぐるみクラスタに限って言えばある種のタブーにさえなっている。

さて、そんななか、例えば子供を何人産んで、老後はこんな暮らしをして……みたいな青写真を描いている人が今の若者にどれくらいいるかという話である。

もし、積極的に老後を含めた人生の青写真を描いている人がいたら、僕はきっとその人のことをよくできた人というよりは、ちょっとバカなんじゃないかとさえ思ってしまう。

というか、なんなら40歳か50歳くらいで死んでしまった方が、人生の設計はうまくいくような気さえする。

今の若者というのは潜在的に死にたがっているというのが僕の持論である。

死にたがっている、生きることへの執着がないというのは、決して自殺願望があるだとか希死念慮があるだとか、そういうたぐいの物ではない。

目の前にロープがあっても首を差し出すつもりはないし、電車が自分めがけて飛び込んできたら、おそらく逃げるだろう。

なぜ、生きることがかくも憂鬱なのかというと、生きることは労働と同義だからである。

端的に言って働きたくない、楽して金を儲けたいのである。

さあ、ではどうやって金を稼ぐかである。

実はこのような話題に、かつて研究室になったことがある。それはJK(助教)が語っていたことだった。

助教とは20歳近く歳が離れているとは言え、この辺の価値観はどちらかと言えば我々に近いらしい。もっとも結婚して子供もいるから、僕らよりはよほど建設的なのだが。

そんな助教曰く、楽をして金を儲けるなら手っ取り早くは宗教らしい。
なるほど、ごもっともである。

そして、助教にはある宗教の考えを持っているらしい。

それが、潜在的に死にたがっている若者を緩やかに自殺させてあげる宗教である。
それは、安楽死なんかよりはもっと哲学的で、具体的な方策というのは思い浮かばないそうだが、とにかく未来に希望を失った若者をシームレスに生から死へ導いてくれる宗教なのだそうだ。

なるほど。僕が日々考えていたことをここまでピンポイントに撃ち抜く助教の発想というのには、頭が上がらない。

死にたいけど別に今日明日死にたいわけじゃない。1年後に死ぬとしてもちょっと困る。
楽しいことしたり美味しいものを食べたりはしたい。でも、別に積極的に生きたくはない。
緩やかに死にたがってる。
そんな閉塞感、厭世感を救う宗教である。
儲からないわけがない。

そこでふと僕は思い立った。
ああ、それはきっと昔でいう「出家」なのではないかと。

古文を読んでいたころは特に何も思ってなかったが、あいつら出家し過ぎである。

失恋したら出家、何かがうまくいかなかったから出家。ファッションで出家してるかのようである。

しかし、出家というのは画期的なシステムな気がしてならない。
世を捨て親を捨て友を捨て、よく分からない修行に励み、悟りを開くのである。
これは、ある意味、生きながらにして自殺ができているのではないか。

となると、昔の人も、本質的には死にたがっていたのかもしれない。

このご時世に出家する人はさほどいないだろうが、若者に対して出家に対して、カジュアルに"自殺"できるような宗教を提供できれば、かなり訴求心があるだろう。

残念ながら、僕が提供できる宗教は「はぁ……中の人は男性……」教で、ご利益は橋本ララにブロックされることくらいしかないが、もし怪しげな宗教を立ち上げて一山当てたいという方がいれば、僕にご一報くだされば、ともに変な宗教を立ち上げるのを手伝います。
若者からお金を巻き上げましょう。