忍たま乱太郎

 忍たま乱太郎を最後に見たのはいつだったのか思い出せないくらい昔なのですが、今僕に言えるたったひとつのことは、あの頃は幸せだったということだけです。実家との仲も当然よく、義務なんてほんと宿題くらいしかなくて、それさえちゃっちゃと終わらせれば、黙っていても美味しい晩ご飯が出てくる、そのような時代でした。実家の居間にある赤いじゅうたんの上で寝そべりながら、午後 5 時 50 分から始まる 10 分間のアニメをぼんやりと眺めていました。一番覚えている ED はこれかなあ。映像は違うみたいですけど。そして、天才てれびくんが始まるのです。

 

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 たまに、地方で忍たま乱太郎の着ぐるみショー*1みたいなのがあって、土曜日の朝なんかに放送されていたのですが、それを見て若かりし僕が多少興奮していたことは、今更特筆すべきことではないでしょう。まあ、あくまで多少です。僕は、女の子の着ぐるみに興奮するんだ。彼らバク転とかするしな。よっきーさん*2とか、着ぐるみ着たままバク転できそうだなあ、と漠然と思っていたのですが、できないそうです。マジか。うちの父親、全盛期はバク転できたらしいから、よっきーさんも当然できると思っていました。素ならできるのかな。

 

 例によって、仕事が辛いので、酒を飲みながらブログを書いているのですが、だんだん酔いが回ってきて訳がwかあrたなくってきて「、へんなことかいてるかもsれいなけど、ごめんあんあさい。で、ですね。忍たま乱太郎を見ていたなんてそれこそ小学校中学年くらいが最後なんですよ。そしたら、高校に入って、なんか腐女子に人気みたいじゃないですか。

 

 事実、高校の文芸部の後輩にひとり、忍たま乱太郎もとい落乱*3にはまった人がいまして。二次創作をやったり追いかけたりしていました。食満先輩が好きだったようです。まず、読めねーよ((「けま」と読むらしい。pixivによると、食満留三郎(けまとめさぶろう)は、六年は組で、気が強く好戦的でショタコンらしい。知らんけど。)。僕にはさっぱり分かりませんでしたが、Twitter で、延々と食満先輩への愛や魅力、CP の持論を語る様子は、なんだか見ていてとても微笑ましく、無駄に癒やされていました。よく分からなくても、好きなものを延々と語る人を傍らから見ているのは、なんとなく幸せを感じるものです。僕が Twitter で滔滔と着ぐるみさんへの愛を語っているのも、着ぐるみに興味のない人が見てもそんな風に受け止められていたらなんだか嬉しいなあと思う次第でもあります。今は、落乱は卒業して、"2.5次元"である男性アイドルの追っかけをしているようです。それはそれで幸せそうなのでいいと思います。こないだ「ぎゅってしてもらった」ってエピソードを嬉しそうに語ってくれました。お、俺の前で「2.5次元」って言葉を使うか、と思いましたが、まあいいと思います。アイドルが2.5次元なら、着ぐるみはどうなるんだ。2.25次元か。

*1:調べてみると「忍たまがやってくる」というタイトルで放送されていたようである。

*2:僕の師匠。着ぐるみを着たまま川で泳ぐ。

*3:落第忍者乱太郎。原題。

浪人

 僕は、現役時代勢いで京都大学を受験しましたが、結局失敗。浪人する道を選びました。詳しくはまあそのうち話すかもしれないし、話さないかもしれませんが、まあ僕は京大を受験せざるを得ない状況になっていまして、そのうえプライドが邪魔して、中期*1は受けない、私立*2は蹴る、後期は全然すべり止めじゃないところ*3を受けまして、浪人しました。ここだけの話、12 月や 1 月ごろは、京大は無理だろうと自分でも思っていました。ほとんど記念受験に近く、合格最低点を 100 点近く下回るというような悲観的な予想も立てていました。結果蓋を開けてみれば、15点ほど足りないという「いい線まで行ってる」という感じでした。やはり現役生直前成績急上昇説は正しかったことを証明する形になりました。もちろん浪人したからと言って次の年に受かる保証なんてどこにもないですが、当時の僕というのは、今の僕よりもずっとオプティミストで、堂々と浪人したのでした。挙句、母校愛に溢れていた僕は、高校に「合格者の笑顔」のパロディ「不合格者の泣き顔」を提出し、「これを載せて後輩を鼓舞してくれ」と言う、ロックなことをしたものでした*4

 

 で、浪人するのに選んだのは、駿台でした。河合塾質実剛健だが、文系向けのイメージ。代ゼミは、すこぶる評判が悪く、高校の先生は「動物園みたいな雰囲気が好きなら代ゼミはおすすめ」と皮肉られる始末でした。どこから、僕が受験生だという情報を仕入れたのか知らないが、その年の 3 月には、大手予備校から無名予備校まで、ひっきりなしに予備校の勧誘のはがきが送られてきました。一時期、ECC 予備校*5にも気持ちが傾きましたが、結局プライドで駿台に行きました。

 

 駿台がいい予備校だったか、悪い予備校だったか、その判断はつきかねますが、まあそれなりに分かりやすく楽しい先生もいたし、なんだかんだで最終的には合格したのだし、悪くないという判断を下すのが適切なのかもしれません。しかし、今でこそ、社会人になって暗澹とした生活を送っていますが、冷静に考えて、浪人時代のほうが今よりずっと不健全な生活を送っていたと思います。あのですね、「健全」「不健全」って、変態がどうとか着ぐるみさんがどうとかそういう話じゃありませんので念のため。予備校は、どういう場所かというと、「学校」からありとあらゆる"遊び""余暇""余裕"を差っ引いたものだと思ってください。すし詰めのぎっしりと立ち並ぶ机で、養鶏場のブロイラーのように身動きの取れない状況で、朝から晩まで延々と受験に関する科目の講義を聞き続けるのです。150 人はあろうかというと大教室で、生徒と先生は対話することもなく、工場で水耕栽培される野菜のような顔をして、鉛筆とノートを使って、毎日を過去に押しやっていくのです。

 

 ついに友達は一人もできませんでした。

 そして、友達がいなくてもなんの不自由もありませんでした。それが予備校という場所なのです。

 日々の楽しみは、電車の行き帰りにガラケーで見る mixi (当時赤字中毒*6だった。)と、1 ヶ月に 1 回くらい行くヒトカラ*7と、高校の先輩や同じく浪人している友人との会合くらいしかありませんでした。

 それを考えると、今の社会人生活のほうが、よっぽど健全な気がするのです。それなのに、こんな暗澹とした気分になるのは、年齢とか長期的な不安感とかが精神を支配しているからなのかなあ。

*1:大阪府立大学工学部。おそらく当時の僕の実力でも合格したと考えられる。

*2:同志社大学

*3:大阪大学

*4:僕の後輩の年から、これを真似する人が出てきて、しかもそれをやった生徒は翌年志望校に合格するという"ジンクス"までできたらしい。

*5:学費が、駿台の 3 分の 1 程度だったので、かなり心は動かされた。浪人時だの学費は親に返す約束だった。

*6:「新着コメントが1件あります!」と赤文字で表示される

*7:高校時代はジャンカラで、当時 DAM しかなかった。ボカロ楽曲は専ら JOYSOUND にしかないというような状況だった。シダックス千日前には JOY があり、ボカロに絶賛はまっていた僕にとって、JOY のあるシダックスはプレミア感の溢れる場所だった。また、今でもその記憶が根強いのでカラオケは JOY 派。

レトロ

 レトロといえば、懐古趣味のことです。

 門司港レトロは、北九州にある観光地域で、海が直ぐ側にあるロケーションが素敵な場所です。何があるというわけでもありませんが、外国貿易で栄えた建築物を大正レトロ調に整備した場所で、町並みが美しく、なんとなく歩くだけでもちょっとうきうきするようなところで、グリーティングもめっちゃできます(←重要)。5,6人の女子中学生に囲まれて「可愛い」って言われたこともありました。

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 大学院時代の研究室にあったレトロなものといえば、有機溶媒の還流装置です。これは、どうも准教授の先々代あたりから使われているらしく、一説には 50 年を超えるシロモノだとか。もはや故障しても誰も直せない(構造は単純なので直そうと思えば直せるらしいが)ので、アンティークと化しています。というか研究室にあるものは、基本的にみんなアンティークなものばかりで、最新の設備はほとんどありませんでした。

 

 じゃあ企業に入ると、そんなアンティークから解放されるのかというと、そんなことはなく、むしろうちの会社は研究室時代以上にアンティークな趣味を嗜んでいらっしゃいました。研究室ではデジタルで出力していたデータも、なんと会社ではアナログ出力。測定されたデータは紙に書きだされべろべろと吐き出し続けてくれます。ありとあらゆる設備、構造物が古く、えらいところに入ってしまったなあ、という感想です。レトロと言えば聞こえはいいですが、ただ単に設備投資を渋っているだけですね。

 

 ちなみに僕は、黒電話を実家時代に使っていました。ダイヤルがボタンじゃなくて、「ジーコジーコ」って回すやつですからね。小学生あたりまでは普通に使っていたのを覚えています。あれ受話器めちゃくちゃ重かったですよね。そういや、電話マーク「☎」って、黒電話か。なんか「保存」のフロッピーディスクアイコンみたいですね。

コスプレ

 今でこそコスプレイヤーの端くれとしてやっているのですが、高校時代はまさか自分がコスプレイヤーになるとは思っていませんでした。というか着ぐるみが着れるようになるとは思っていなかったので感無量なわけです。まあ、それはさておき。それでも、高校時代に実は一度だけコスプレイベントというのには行ったことがありまして。今日はその話を少々しようかと思います。

 知っての通り(?)、僕は高校時代、文芸部に所属していました。文芸部は、漫画アニメ研究部(以下漫研)と一緒に活動していたのですが、漫研の同期と先輩がレイヤーさんで、折にふれてコスプレイベントに行っていました。また、文化祭の時期には衣装の制作も行いメイド服なども作っていました。ここから先は全くの余談なのですが、文芸部の同期(男)が、「メイド服はロング丈であるべきだ」という原理主義者的主張をしていたのを、そのレイヤーさんが「布代がもったいない」と一蹴していたのは興味深かったです(そんな変わるんだろうか……)。

 

 で、そのレイヤーの先輩は、普段ならまあ趣味仲間とイベントに参加していたのでしょうが、一度だけ文漫*1 のメンバーをコスプレイベント*2に誘ってくれたことがありました。2008 年 3 月だったので 8 年前ですね。驚くべきは、当時ではまだ今よりも珍しかったオタクを自称(?)していた英語の先生(男性)までにも声をかけ、参加することになっていたことです。ただ、あいにく当日の体調不良により欠席してしまいましたが。場所は、南港ATC*3。当時からレイヤーさんの聖地だったんですねえ。

 

 当時は今よりも自由度が低く、外に出るレイヤーさんは少なかったか、あるいはそもそも禁止されていたと思います。実際当時の写真を見ても、外での撮影はなく、屋内のもっぱらロール紙背景だけの写真となっております。これ、クラウスさんやたかはるさんやHOSOnさん*4の家でも撮れるな、と今なら思っちゃうわけです。今や、ATC の外はおろか、神戸市内の街や、京都の観光地のど真ん中や、奈良の人通りの多いところで、一般人に囲まれながら、それはもうフリーダムにやらせていただいていますがね。まあ、当時の僕そして世の中というのは、そういう時代だったのです。作品は、らき☆すたやボカロやハルヒひぐらしがメインみたいです。これらが青春を象徴するものとなっているという点に些かの残念さを拭いきれませんが、まあこれらが「旬」だった時代なんですよ。これらを「懐かしい」という感情なしに見ていた時代なんです。あれ、目から汗が。

 僕は、コスはせず、「カメコ」として参加したわけですが、若気の至りと言うほかありません。10 人くらいのメンバーで行ったのですが、多分 3 分の 2 くらいがコスをしていたと思います。まあ、無理やりコスさせられている先輩もいましたが。女装コスはどうなんですかね。当時は禁止されていたか、少なくとも今よりはずっとマイナーな存在だったはずです。

 

 僕にとって初めてとなるコスプレイベントでしたが、やはり社会見学としての側面が強く、非常に印象に残ったのを覚えています。今でこそ朝飯前の茶漬けとでも言わんばかりに、僕がさくっとコスプレイベントに参加しちゃったり、参加しないにしても肌タイ着て衣装来て面被って"コスプレ"をできちゃうわけですが、当時の僕あるいは世の中にとっては、コスプレなんてそれこそ遠い世界、パソコンか下手したらテレビの向こう側の世界だったわけなんです。ニャー速*5痛いニュースなんかで「コミケのコスプレまとめ」みたいなんかで、破廉恥で扇情的な格好をした姉ちゃん('(扇情的な格好(=着ぐるみ)をする兄ちゃん……。はぁ……中の人は男性……。))という、昭和生まれの人みたいな認識だったわけです。それを生で見た訳ですから、まあ少なからず勉強になりました。「髪の毛が! 有彩色の人間がいる!」なわけです。俺は初めて南蛮人*6を見た室町時代の人間か。「服が! アニメや!」など深刻な語彙力の低下を来すわけです。それくらい不思議な気分になるのです。まるで心地の良い悪夢を見ているような、非日常体験をしました。

 

 コスプレってのは非日常なんですよね。今でこそ日常の一部というか、ぶっちゃけ仕事に行っている自分のほうが非日常で、着ぐるみを着ている自分のほうが日常なんだ、とさえ思っているほど当たり前になってしまっているんですが、初心忘れるべからず、初めてコスプレイヤーを見た時のドキドキ感を時には思い出して、肌タイに手足を通すべきだとブログを書きながら思いました。

*1:文芸部と漫研の総称。

*2:当時の参加証は、僕はよほど珍しかったのかスキャンして保存していた。ちなみに今見たら、 COSJOY だった。

*3:大阪南港アジア太平洋トレードセンター。当時から現在に至るまでコスプレイベントが頻繁に開催されている。

*4:いずれも着ぐるみクラスタの人で、家に「撮影場所」がある。

*5:当時あった 2 ちゃんねるまとめブログ。

*6:室町時代末期から江戸時代にかけて日本を来訪したポルトガル人やスペイン人。

類義語

 「妖狐×僕SS*1に、青鬼院蜻蛉が「反対語の反対語は?」と出題し、夏目残夏、髏々宮カルタ、雪小路野ばらが、答えられない中*2、頭脳明晰な白鬼院凛々蝶が「類義語だろう」と即答する場面があります。

 

 それがどうしたという話ですが、すいません、さっきビール*3飲んだんで、僕もよく分かりません。酔いながらブログ書いているので、若干支離滅裂ですが、まあ素面でもだいたい支離滅裂なので、ほぼ平常通りの運行です。社会人になるとね、お酒飲まないとやってられないんですよ。お酒はいいですね、思考が緩慢になって脳が弛緩しているのが分かります。余談ですがさっき「しかん」って書いたら「紙管」って出てきて、酔いが醒めかけました。仕事で使うんですよ、紙管。ああ。それでですね、あっ、ていうか僕はブログは、どの記事でも 4 パラグラフ、っていう謎の縛りを自分に設けているので、いらない与太話で段落を消費すると、メインの言いたいことが減るんですよ。いや、別に言いたいことってのは特にないんですが。

 

 それで、閑話休題。良くも悪くも空気を読まずに、類義語と即答する凜々蝶ちゃんですが、なんていうかこの感じが僕の元カノ*4を連想させましてね。元カノは別に、頭脳明晰という感じでもありませんでしたし、ニーソをよく履いていたわけでもありませんでしたが、あっ、そうそう、全然関係ないんですけどね。1 ヶ月位前に、中学時代の友人(男ども)二人と会いましてね。僕は、もう元カノとは一切連絡を取っていないんですが、その友人の一人は今でも元カノとは連絡を極稀にとっているらしくて、なんか近々結婚するか、したらしいですよ。ああ、少し前のブログでも彼氏と同棲しているって書きましたね。その人なのかどうかは知らないですが。

 

 まあ、僕の元カノってのは、僕の脳内では中学生で止まっているんですよ。いまは僕と同い年なんでしょ。26 歳*5なんでしょ。やばいよね。僕の記憶ではセーラー服着てましからね。僕、当時持ってたガラケーの暗証番号彼女の誕生日でしたからね。むしろ待受が彼女の写真でしたからね。今は自分が中の人の着ぐるみさんなのにね。いらない話書いてたら、ついに本題に入らずに 1000 字超えましたね。まあ、元から言いたかったことってそんなに大したことじゃなかったので別にいいです、おやすみなさい。

 

 明日は金曜日。

*1:藤原ここあ原作の漫画作品。筆者くっしーはこの作品の登場人物である髏々宮カルタの着ぐるみを持っている。

*2:余談だが、このときのカルタちゃんの「?」が可愛い。

*3:第三のビール。のどごし生。

*4:中学時代の話だ。

*5:早生まれなので、厳密には 25 歳。

ちはやふる

 まあ、正直一番おもしろかったアニメは? と聞かれると、多分「ちはやふる」と答えると思います。「ちはやふる」は、末次由紀原作の競技かるたを題材とした漫画で、2011 年と 2013 年に 2 回アニメ化されています(2 クール × 2 期)。3 期もやりそうな雰囲気らしいんですけどね。機会があれば原作買ってもいいかもしれません。……が、32 巻まで出ているらしいですね。

 

 そもそも、競技かるたというのには、一切馴染みがなく、中学のときに冬休み明けの実力テストで、百人一首を10首書けという問題を出すから覚えとけよ、という課題が出されて、それで試験前日にまあ嫌々覚えたというくらいでした。その中で覚えた一首も

これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関

 で、別にこれが好きということは一切なく、ただ単に覚えやすいからという理由で、一番語呂が良さそうなのをピックアップして、一夜漬けで乗り切った記憶です。

 

 そんな僕が、アニメ評価データベース系サイトで評価が非常に高かったからという理由で、「ちはやふる」を見始めたのですが、これがなかなかどうして面白くて、ついつい先が気になって最後まで見てしまいました。競技かるた。たかがかるた、されどかるた。かるただけでこんなに熱く描けるということに、ちょっと感銘を受けてしまいました。僕はいわゆる"運動部"は忌み嫌っており、広い意味ではスポ根モノにカテゴライズされるであろう「ちはやふる」はむしろ避けそうな作品なのでしょうが、かるたは"文化部"だからすんなり受け入れられたのでしょう。登場人物も魅力的で、恋愛が描かれているにも関わらず、作品全体として決してそれだけに傾倒することなく、あくまでかるたが主題として描かれているのも特長でした(太一が不憫)。

 

 研究室の同期も、同作品にハマっていた時期があって、一時期は二人でかるたを覚えたこともありました。ただ、その覚え方というのは語呂合わせ(百人ゴロ一首(改).pdf - Google ドライブ)の(うっかりハゲとか、もろカニ汁とか*1)ろくでもない覚え方ばかりで、まあ風雅のかけらもありませんでしたが。それじゃ、あんまりだということで、ちゃんと歌の意味も知りたいと思ってたどり着いたページがこちらです。ただでさえ短い 31 文字を 5 字に要約するというページです。「憂かりける……」が「祈りが仇に」とか、「やすらはで……」が「来んのかよ」にまとめられてるのとか最高です。

 流石にこの作品にハマっていたのが、大学院生の頃でしたので、今更かるたを買ってどうのこうのとか、サークルに入ってとかいうのは考えませんでしたが、四畳半神話大系じゃないけど、そんな世界線もあったのかもしれないと思わせる作品でした。

*1:いらすとや無双でウケる。余談だけど「背割れ」(「せ」は一字決まり)って肌タイみたいでいいですよね。

おもち

 おもちは、父の好きな食べものの一つでして、もう正月なんかには、お雑煮に平気で四つくらい入れるような人です。将来は、もちを喉につまらせて死ぬのが夢らしいです。僕は、磯辺焼きなんかは結構好きなのですが、お雑煮のおもちは一つ食べれば十分という感じです。もち自体あまり味のあるものではありませんから、四つも食べるとだんだん喉がつまってきてオエッってなってしまうからです。

 

 実家にはホームベーカリーなんかがありまして、年末になると、ゴゥンゴゥンと音を立ててもちをついてくれるのですが、それを妹と二人でこねて形にするのが、まあ風物詩でした。できたての熱いもちを片栗粉のついたまま、つまみ食いするのが結構好きでした。

 

 実家とは絶縁状態が続いており、もはや年末年始のもちも、記憶から歴史へと変わろうとしているのですが、何年か前に、お正月にみず。さん*1 のおうちでオフ会をやっていまして、そこでお雑煮を食べたときに、ふと"歴史"が僕の脳裏をかすめました。実家のお雑煮はすまし*2 だったのですが、みず。さんの家で食べたお雑煮もすましだったからです。「あー、もう実家に帰ることはなくなったけど、こんなふうにみんなで集まって"オフ会"で"正月"するのは、なんだか新鮮だなあ」と、複雑な気分になったのを覚えています。

 

 流石に一人暮らしになって、お雑煮は作りませんし、なかなかおもちを食べる機会も減りましたが(というか一人でもちってなんだか侘びしそう)、それゆえにそういう場でおもちを食べると、なんだか感傷的な気分に浸ってしまいます。来年はどこかで杵と臼をレンタルしてきてもちつき大会オフを企画してくれる人が現れてくれるんじゃないでしょうか(適当)。

*1:着ぐるみ界隈の人で、家が関東でも有数のオフ会場として知られる。

*2:大阪はもともと白味噌が優勢で、実は当初うちも白味噌だった。しかし、すましのほうが家族の口に合うということで変わった。関東はすましが優勢。